【新譜発売記念特集】The DROPS & Tokyo’s Youth Culture

2023.09.26.Tue

The DROPSの7インチシングルレコード『Give You My Love / Left With a Broken Heart』発売記念! バンド結成時=80年代後半の伝説的な逸話の数々。初代ヴォーカリストが伝える、秘話および当時のサブカルチャーの実態。

日本初の女性スカ・ロックステディ・バンドのザ・ドロップスは、青山学院大学の音楽サークル『英国音楽』に所属するメンバーを中心に、1986年に結成された。同年6月にライブもしている。そんな名前のサークルに入るぐらいなので、みんな当然のごとく、メジャー、インディーを問わずUKの音楽を特に好んでいたのだが、当時「スカリバイバル」が起こったりもしたので、2トーン、レゲエなども再発見した上で、スカ/ロックステディの名曲をカヴァーして、演奏するようになった。のちに初代ドラマーのSatomaに代わり、ドロップスの「黒一点」ドラマーとなるミヨリーノも、同年にダビすけと共に、当時の日本サイコビリー~ラスティックを代表するバンドであるTOK¥O $KUNX(東京スカンクス)を始めている。

1986年とは、いったいどんな年だったのか──バブル景気とは、1986年12月から1991年2月頃までの期間を指すのだが、そんな時期の到来を間近に控え、東京の街は浮かれていた。コアな音楽とは関係ない「一般的な若者」の話をすると、ポロシャツの襟を立てた男子大学生で溢れていた。女子大生ブームの頂点はもう過ぎていて、世間の関心は女子高生へとシフトしてはいたが、1985年に制定された男女雇用機会均等法が施行されたのが1986年だということもあり、女子大生にも存在感はあった。一般的な大学生の大半はそんな感じだったが、美大生の一部や、文化服装学院なんかに通ってた音楽好きのコたちは、パンクやニューウェーブ・ファッションでキメたりして、クラブやライブハウスに通ったりしていた。

そんな感じの1986年から、バンドの歴史はスタートする。筆者・Mayumiが初代ヴォーカルとしてバンドに在籍していた80年代後半期の音楽的な面について語ると、70年代に誕生したパンクの魂が、インディーズ・バンドの「基本」になっていた。音楽をプレイするだけではなく、フライヤーやZINEを自ら手がけ、身につけるファッションを手作りしたりスタイリングにこだわるなど、「DIY精神」をいかんなく発揮していた。それが80年代の東京インディーズ・シーンだ。サークル『英国音楽』では、同名のZINEも作っていた(※当時は「ミニコミ誌」と呼称していた)。ドロップスが誕生した頃はネオGSも流行っていて、バンドのみんなで、よくライブを観に行っていた。ちなみにネオGSとは、1960年代に流行ったグループ・サウンズ(GS)をベースに、パンク~ニューウェーブを通過後に、ガレージサウンドを吸収したスタイルを指す。1986年11月2日(日)、青山学院大学の学祭にて「サイキドリックGOGO大会」というライブ・イベントが行われ、ドロップスのみんなで楽しんだことを懐かしく思い出す。その時の出演バンドは、ヒッピー・ヒッピー・シェイクスザ・ストライクスザ・ファントムギフトザ・ベルズザ・コレクターズだった。また、筆者とドロップスのメンバーであるSakuraSatomaの3人は、ファントムギフトが翌年にテレビ番組「11PM」に出演した際にモブとして踊っている。収録が行われたのは1987年5月10日(日)で、放送日は15日(金)の「金曜イレブン」だった。その時の画像は、バンドのアルバム『ザ・ファントムギフトの世界』の裏ジャケにも使用されている。ネオGSムーヴメントには、のちの渋谷系~90年代の音楽シーンにおける重要人物が数多く関わっていた。小西康陽岡崎京子ファントム・ギフトのファンを標榜していたし、ワウ・ワウ・ヒッピーズにはのちにロッテンハッツを結成する木暮晋也高桑圭白根賢一が、オリジナル・ラヴの前身バンドのレッド・カーテンには田島貴男が在籍していた。コレクターズは今でも活躍中だ。


(*1986年11月2日(日)青山学院大学の学祭のときに行われたライブ・イベント「サイキドリックGOGO大会」のフライヤー。出演バンドは、ヒッピー・ヒッピー・シェイクス、ザ・ストライクス、ザ・ファントムギフト、ザ・ベルズ、ザ・コレクターズの5バンド。)

80年代後半の文化的側面にも目を向けてみよう。今年(2023年)9月に投資ファンドへの売却が決まってしまったそごう・西武だが、その頃の西武百貨店セゾングループを形成し、「モノだけでなく文化を売る企業」として、とっても目立っていた。1983年11月18日(金)にオープンした六本木WAVEは、グループの企業が運営していたのだが、ビル1棟が丸ごと文化発信基地であるかのような存在だった。多彩なCD、レコード、映像パッケージなどが手に入ったし、地下にはミニシアター「シネ・ヴィヴァン・六本木」まであり、カルチャー好きにはたまらない場所だった。

そんなビルができてしまうぐらい、当時の東京の音楽シーンは、活気づいていた。当然だが、新宿の小滝橋通りあたりや、渋谷宇田川エリアを中心に、輸入レコード店も盛り上がっていた。メジャーでもCDの売り上げは凄まじかった。そんな中、ライブハウスやクラブ・カルチャー・シーンも盛況だった。初期のドロップスもいろんなライブハウスに出演したが、新宿JAMではよくモッズ系バンドとブッキングされていた。マウス率いる元祖ガールズ・フリーク・ビートバンドのプラネッツとは、よく対バンしていたものだ。サックスをプレイするメンバーがバンドの一員になってからは、スカフレイムスやメジャー・デビュー前の東京スカパラダイスオーケストラとも共演した。余談だが、筆者は「バリトンサックスを買ったらバンドに入れてやる」と言われていた谷中敦が楽器を購入しようとするのを、至近距離で見ていた。

80年代半ば~後半ぐらいに存在し、UK音楽好きが好むようなクラブを独断と偏見でピックアップすると「ツバキハウス」、「P.ピカソ」、「下北ナイトクラブ→ZOO」、「第三倉庫→ミロスガレージ」などが挙げられる。“伝説のディスコ”として語り継がれているツバキで毎週火曜日に開催されていたロック系クラブイベントの「LONDON NITE」は、とても貴重だった。主催の大貫憲章が新宿3丁目テアトルビルの5階にあったツバキロンドンナイトを始めたのは1980年。筆者がそこを初めて訪れたのは高校生の頃だったが、フリーフードもわりと美味しかったし、UKの音楽がじゃんじゃんかかるから、楽しかった。ミヨリーノは昔、ツバキで働いていたそうだが、ドロップスのメンバーと知り合ったのは「下北ナイトクラブ」に勤務していたときだ。

下北ナイトクラブ」は、「ZOO」(その後、SLITSに改名)の前身クラブ。店の遍歴を簡単にまとめると、1987年に「下北ナイトクラブ」として開店し、翌1988年の4月~GW明け頃に「ZOO」となり、1994年に「SLITS」と名前を変え、1995年末移転を理由に閉店した(未だ再開されてはいない)。「ZOO/SLITS」は、下北沢から日本の音楽カルチャーを牽引した伝説のクラブとして名高い。のちにドロップスに加入することになるYumiChikaがサックスの練習場所を探していたところ、「下北ナイトクラブ」の女性店長のミワさんが「昼間練習していいよ」と言ってくれて、無事、2人はそこで練習できるようになった。そのミワさんが「うちにもサックスやってるコがいる。一緒に練習すれば?」と、2人にミヨリーノを紹介したそうだ。Yumi曰く「ミヨリーノに店を開けてもらって、Chikaと一緒に昼間、練習した。入り口と天井のすきまみたいなところに楽器を置かせてもらってた」とのこと。Chikaも「あそこ、霊が出るって噂があったから、昼間誰もいない店内はちょっと怖かった」と当時を回想している。そんなふうにYumiChikaは1987年に「下北ナイトクラブ」でサックスを練習していたのだが、当時はまだドロップスには加入してはおらず、1988年になってからメンバーになった。筆者とその他初期ドロップス・メンバーは、初めのうちは単に客として「下北ナイトクラブ」に行っていたのだが、いつの間にかミヨリーノと、のちに「ZOO」の店長となる山下直樹と知り合い、親しくなっていた。
(*「その時はスカ一色だった」とSakuraが語る、1987年の手帳に描かれたイラスト。)

筆者と初代メンバーのSakuraSatomaは1988年2月から3月にかけてロンドンに滞在していたのだが、その時にChikaと知り合ったのだ。初代メンバー3人は、ロンドンで様々なスカやロックステディのイベントを訪れていた。スカパラの元ドラマー、青木達之も同時期にロンドンに来ていたので、みんなで一緒にライブやDJイベントに行った。ギャズ・メイオール率いるトロージャンズのライブは何度も行きまくった。“スカのゴッドファーザー”と呼ばれたローレル・エイトキンのライブを1988年2月9日(火)に観ているのだが、何かの運命なのか、Sakuraはそのライブの同日に、乗っていた地下鉄の電車内で、真向かいに座っていたジェリー・ダマーズを見ている。ダマーズは、元ザ・スペシャルズのメンバーで、バンドの創立者/ソングライターだ。ロンドンのクラブ「ゴシップス(GOSSIPS)」では木曜日に「ギャズズ・ロッキン・ブルーズ」が開催されていた。主催者は60年代にブルーズ・ブームを起こしたジョン・メイオールの息子で、20年代~60年代のブルーズ、R&B、スカ、ヒルビリー、ロカビリーやパンクまで、あらゆるジャンルのイカす音楽をDJとしてプレイする名セレクター、ギャズ・メイオールギャズは1987年にトロージャンズとして1stアルバム『アラスカ』をリリースし、世にスカリバイバル旋風を巻き起こしてもいた。Chikaも当然「ギャズズ~」に行ってはいたが、3人がChikaと出会ったのは1988年3月26日(土)、デズモンド・デッカーのライブでだった。デッカーはレゲエ音楽初のインターナショナル・スーパースターとして、60年代後半から70年代半ばにかけて数多くのヒット曲を発表したジャマイカのレゲエ歌手だ。会場のバーキングという場所からロンドン市内に戻る際、ナイトバスに乗り合わせた私たちは、道中にいろいろ話した。Chikaはその後、英国人と結婚し1989年5月には英国に移住することになるのだが、このライブ後は一時期、日本に戻ってきて、スタイリストとして仕事をしていた。その際にドロップスのメンバー6人、MayumiSakuraSatomaMinoriSayokoMiwaChikaに依頼され、雑誌『CUTIE』の企画に参加し、撮影された。その模様は『CUTIE 別冊宝島キューティVOL.2』(1988年7月31日発行・JICC出版局)に掲載されたのだが、コメント欄にはこう書かれている──「女の子だけのスカバンド“ザ・ドロップス”をやってます。カヴァーが中心。スペシャルズデズモンド・デッカーの古いヤツなんか好きだなー。バンドと並行して音楽関係のミニコミ誌も作ってて、7月ぐらいに出る次号には、私たちがやったポテト5のインタビューが載る予定。これってイギリスのミニコミ誌“ZOOT”にも載ったことあるのよ。これからのライヴの予定はまだ未定。色んなバンドのギグもよく行くし、ほとんど音楽が趣味。好きだからバンドやってる!!」なかなかエモい感じだ。

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(*『CUTIE 別冊宝島キューティVOL.2』(1988年7月31日発行・JICC出版局)に掲載された、当時のメンバー6人。上段・左から時計回りにMayumi、Sakura、Minori、Satoma、Sayoko、Miwa。)

前述したとおり、「下北ナイトクラブ」は1988年の4月~GW明け頃に「ZOO」になっていたのだが、ドロップスはハコ名が「ZOO」になってから、火曜日のスカ/ロックステディのイベント“ZOOT”に、看板バンドとして出演するようになる。ドラマーはSatomaからミヨリーノになり、YumiChikaも加入。Ed TSUWAKI(エドツワキ)が1989年に描いてくれたイラストでは、バンドメンバーはMayumiSakuraMinoriSayokoMiwaYumiChikaミヨリーノの8人編成となっている。当時のドロップスは、渋谷のスタジオペンタでオールナイトで練習して、「ZOO」はもちろん、色々なライブハウスに出演していた。ドロップスは、昭和天皇が崩御した1989年1月7日(土)にJAMでライブをしているのだが、当時そのニュースを聞いた直後には「今日のライブは中止になるのかな?!」と思ったし、ライブに来てくれる予定だった友達からも、じゃんじゃん連絡がきたことを覚えている。結局、ライブはなんとか実施されることになった。そのライブの直後──「昭和」という時代が終わり、元号が平成に変わったばかりの1989年2月11日(土)に、TBSの深夜番組『平成名物TV』の1コーナーとして、イカ天こと『三宅裕司のいかすバンド天国』がスタートし、多様なバンドがこの番組からメジャー・シーンへと踊り出て、相変わらずバンド・シーンは盛り上がることとなった。だが、初期ドロップスからは、その後、何人かが引退することになる。Yumiは「よくエドくん(Ed TSUWAKI)のバンドとか、ムスタングA.K.A.とかとライブやった記憶が……それで吉祥寺の曼荼羅でやった時に、初期のスカパラと共演してて、ドロップススカパラで近所の居酒屋かなんかで打ち上げをしたんだけど、合コンみたいで可笑しかった」と、当時のバンド・ライフを回想するが、その話題が出た後に、Chikaが「私は、もうその頃が最後のライブだったかもしれないな」と語った。Chikaがバンドを脱退した頃と時を同じくして、MiwaSayokoも引退し、筆者も追って“卒業”することになる。


(*アーティストのEd TSUWAKI(エドツワキ)が1989年に描いたイラスト。左上から時計回りにMinori、ミヨリーノ、Sakura、Sayoko、Miwa、Mayumi、Chika、Yumi。「BATMAN!」という言葉は、当時バンドがザ・スカタライツによるスカ・ヴァージョンの「バットマン」をカヴァーして演奏していたことに起因している。)

その後ドロップスは、1991年に元ZOOSLITS店長・山下直樹が始めたレーベル、OBI・WAN Recordsから7インチ・アナログ・シングル「Meet the Drops」をリリース(発売は1992年)。エグゼクティブ・プロデューサーは山下さんで、レコーディングは1991年6月に新宿JAM STUDIOで行われた。同シングルが出た際には「ZOO」でライブが開催され、レコードが客に配られたりした。そのシングル盤は、一部マニアの間では、ちょっとしたレア盤として知られている。

そう、メンバーがその時々で変わっても、ドロップスというバンドは「The Show Must Go On(最後までやり遂げなければならない)」という慣用句のごとく、現在まで続いているのだ。これって、ちょっとすごいことだ。現在のドロップスは、ミヨリーノを除き、すべて新メンバーで構成されているが、80年代からずっと変わらず、素敵なスカ・チューンを世に送り出し続けているのだから!

VIVA, The DROPS!!「GIRL POWER(ガールパワー)」は、永遠につきることはない。

text by 堀口麻由美 Mayumi Horiguch (初代ヴォーカル)
協力: 80年代在籍メンバー
イラスト・絵素材&資料提供:Sakura(初代キーボード兼ヴォーカル)

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【PLS調べ】
The DROPSは1995年頃にはすでに解散していたが、V.A.『Skaville Japan vol.1』への音源提供の反響もあってか、一部のコアなファンや他のバンド/DJからの要望もあり再活動を模索。ついにはRude Bones大川裕明の声掛けにより、Alphatones, 54 Nude Honeys, Caeser Soze, One Drops, Riddim Saunter, Shoplifter, Sister Martens等の女性メンバーが集結。ゲストヴォーカルにThe 5,6,7,8’sYoshikoを迎えThe Faburous Dropsとしてスカヴィルジャパン2006で復活した。その後もメンバーチェンジを繰り返し、2008年に2ndシングル『Mo’ DROPS』、1st album『Soda Fountain』を発表。さらにメンバーチェンジを繰り返し、現在に至る。

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【新譜情報】
The DROPS IS BACK !!
ファンが待ち焦がれまくり続けた BLUE BEAT GIRL GROUPThe DROPS” の待望の7インチが本日発売!

■ARTIST: The DROPS
■Title : Side-A Give You My Love / Side-B Left With A Broken Heart
■Label : SODA FOUNTAIN
■cat no. : SF-001
■販売価格 : 1,800円 (税込)
■発売日 : 2023年9月27日(水)
■仕様: 7インチ
ご購入はこちら/ https://shop.pls.tokyo/items/76827086

【ライブ情報】
10/7(土) SKAViLLE JAPAN 2023 ~ Club City’ 35th Anniversary Special~ @ CITTA’
11/12(日) 7インチレコードリリースパーティー @ 下北沢Basement Bar

2023.09.26.Tue

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